どうして、人は自分の思うように生きられないのでしょうか?
人々のスピリチュアルへの興味は「今よりも自由に生きられるようになる」きっかけや理由が見つかるのではないか?という期待から始まります。
この世界の仕組みについて悟り、今までの幻から覚めたこと、そうして得られた悦びと気づきを他の誰かに伝えることどころか、自分がそうだとは知られてはならない、
いや、「自分のようなものがそんな境地にいけるはずがない・・・」そんな否定・卑下の心すらある。
それらは具体的には
・自分の才能(努力の方向性)に気付くこと
・与えられている環境を理解すること
・人生の目的、ひいては人類全体・地球全体・宇宙全体への目的に参加するときの役目に気付くこと
・自分の魂本来の悦びを思い出すこと
好きなこと、やりたいことをすればいいのに、私たちは環境や生い立ちや能力のせいにして、できない理由ばかり並べることが多いのです。
好きなこと・やりたいことをやってみようとしたところで、楽しいことばかりじゃないのはわかりきってるのに、どうして「仕方なく」あなた以外の誰かがやりたくてたまらないかもしれないことをあなたがやっているのでしょう?
「誰か」より良い思いをしていたい、「誰か」より幸せでいたい、その「誰か」をあなたの中に設定している限り、あなたもまた誰かの中の「誰か」になることに気付いてください。
それは、まるで合わせ鏡。
あなたは、この「競争世界」というゲームの世界から降りたいですか?
気付いていて降りられない人は、どうして降りられないのでしょうか?
全ての争いは恐れ
・失いたくない
・損をしたくない
・傷つけられたくない
といったすべてこの地球世界特有の生存本能からきています。
私たちは、この地球でこの恐れを乗り越えた先の霊性(魂)がいかに素晴らしいのかを体験するためにこの地球へ生まれてきました。
そう、だから私たちは本来の「光」の姿を思い出し、納得したところで「光」へ向けて「戻りたい」と自然に思うようになっているのです。
でも、だったらなぜ私たちは時折、罪悪感のような感情を抱くのでしょうか
それは、慣れ親しんだ習慣、環境、エネルギーへの執着が起こしているのです。
子供のころから親に歪んだ愛され方をした子供が大人になって、いざ共依存関係のある親と離れようとしてもそう簡単には出来ない、それと同じことなのです。
ゆっくり、ゆっくりでいいんです。
目覚めはゆっくりで、構わないのです。そして、同時に罪悪感も抱く必要はないのです。
なぜなら、あなたが真理(健全な関係)に目覚めることで、あなたの周りの人々(親や配偶者・子供)も癒されていくからです。